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開設記念日だよ人なる短編。

 へいじつや開設9周年だそうですよ!!

 ……ということを、朝のまだ半分眠っている頭で拍手コメント確認して知ったわたしです。
 ここ数年で一番フレッシュな寝起きドッキリだったわ……いやドッキリじゃないけど……。

 去年も忘れてましたが、今年の方がもっと真剣に本気で忘れていました。
 教えてくださってありがとうございます。そしてお祝いコメントありがとうございます。

 せっかくなので、今年は人なる短編を書いてみました。不義理のお詫びも兼ねまして!
 久しぶりのレギュラー四人のまったり生活話です。結構長くなって自分が一番焦ったわ。


ある順調な一日


朝‐1

 遠く、誰かの声が聞こえる。
 くわんくわんと洞窟を渡る残響のような呼び声が、薄く、か細く、サフィギシルの意識を撫でる。呼ばれているのだ。何回も、執拗に、その名を繰り返している。
「サフィー。朝だぞー、サフィー」
「…………」
 サフィギシルがようやく目を開けると、カリアラは「うん」と小さく肯いた。
「起きたな」
 起きたとも。としばしばする目で訴えると、カリアラはさらに肯く。
「朝ごはんだ。持ってたぞ」
 サフィギシルはまだ寝床から起き上がることができない。体の半分が枕と敷布団にこびりついているかのように、多少のみじろぎをしてはまた墜落を繰り返している。
 そんな、明らかに眠り足りない「目」の前に、カリアラは大きな赤いりんごを置いた。
「一個でいいか? もっと食うか?」
「…………」
 首を振るのも面倒で、サフィギシルはカリアラを軽く睨む。ひとつもいらない、倉庫に戻せと訴えたつもりだが、伝わらなかったようだ。カリアラは気にもせずに、一つ、また一つとサフィギシルの前にりんごを並べた。
「おれは一個食べたんだ。シラは半分だからな、もう半分もおれが食べた」
 じゃあお前が食べたのは一個半だろと視線だけでは語れない。サフィギシルは執念深く毛布の端を握りしめ、精一杯の声を出した。
「さっき寝たんだ……もうちょっと……」
「駄目ですよ、ここ片付けるんだから」
 新しく加わったのはシラの声だ。耳では理解できるが、目では確かめられなかった。部屋のカーテンが開けられて、眩しい朝の光がサフィギシルの目を焼いたからだ。
「どうしていつも夜更かしばかりするんですか。ほら、布団しまいますよ」
 言い終わる前にシラが布団を引き上げて、サフィギシルはりんごと一緒にころころと床に転がった。もうほとんど本能として毛布を掴み、素早く体に巻きつける。サフィギシルはのろく起き上がった。
「……あっちで寝なおす……」
「りんご食わないのか?」
 カリアラの言葉に首を振って、後はもう振り向きもしない。わざわざ見なくても、シラがどんなに呆れているかも、カリアラがどんなに不思議そうにしているかも知っているのだ。いつものことなのだから。
 野生動物にとっては、朝日が昇れば目覚めるのは当たり前のことなのだろう。そもそも、何も見えないはずの夜中に、わざわざ部屋に閉じこもって作業などしないはずだ。夜になればすぐに眠り、明るくなると同時に目覚める。
 まったくもって、サフィギシルとは相容れない生活だ。元ピラニアや人魚とは違って、彼は明け方まで作品作りに没頭していた。眠ったのは、正味二時間といったところか。
 サフィギシルはよろりよろりと廊下の壁にすがりつつ、作業部屋も通過して、奥にある自分の部屋に戻る。板窓を閉じたままの暗さが嬉しい。ひんやりとした空気の中、ふかぶかとベッドにもぐる。
 たちまちにやってきた眠りの淵に足をかけて、いい加減に、初めからこの部屋で寝ることにしようかと思う。そうすれば一度起こされることもなく、存分に眠れるだろう。
 今夜から。いや、明日の明け方からはそうしよう。別に、毎日三人で眠らなくてもいいんだから……。
 サフィギシルは頭まで毛布を被りつつ、結論と共に夢へと落ちた。


朝‐2

「サフィ、りんご食わなかったな」
 カリアラは残念そうにしている。落とさないよう、真剣に運んだ「朝食」が無駄になったのだから仕方がない。シラは床に転がるりんごを拾って食べた。
「美味しいのにねぇ」
「うん、甘かったぞ。ちゃんとすっぱくなかったのにな」
「もったいないひとですよねぇ」
 耳触りのいい音と酸味が口の中に広がっていく。
 シラは考える。確かに、ここ最近食べた中では一番甘いりんごだった。相変わらず、大味で酸っぱくて変な苦味もあるのだが。これまでのものよりはましだ。
「ペシフィロさんが作った中では、かなり美味しいほうですよね」
「うん。ぺシフのはいつもすっぱいからな。これはえらいな」
 あの緑色の魔力にあふれた変色者の畑では、どんな野菜や果物も巨大にふくれあがってしまう。その分、ぽそぽそとしていたり、間の抜けた味だったり、変な後味がしたりと惜しい物が続いていたのだ。今回は、まだ、良い方だった。
「でもな、やっぱり城にあるやつの方がうまいな」
「……さっき私が言ったことも含めて、ペシフィロさんには言わないでくださいね」
 ごく自然にけなしてしまったが、ペシフィロの前では、シラはまだ猫を被っていたのだ。時々忘れてしまいそうになるが、一応は被り通してしまいたい。
 カリアラは肯いていたが、本当に意味を理解しているのかはわからなかった。
「さ、片付けましょ。ソファも出してしまいたいし」
 普段シラがくつろいでいる絨毯もソファも、夜に眠るときには壁際に寄せてあるのだ。シラは三人分の布団を引きずり、適当に部屋の隅に積み上げる。カリアラは嫌な音を立てて家具を引きずり、それぞれを元の位置に戻す。床板には、サフィギシルが見つけたら悲鳴を上げそうな傷がついたが、シラは見ないことにした。趣があって逆にいいかもしれないと、考えることにする。
 かなり歪んではいるものの、部屋の景色が慣れ親しんだものに戻る。ふたりは時計を確認した。もうそろそろ、カリアラが出かける時間だ。目と目でそれを確認し合い、カリアラは鞄を取りに二階の自室へ、シラは彼を見送るために外用の靴に履き替える。着替えは済んでいるものの、家の中と土の上では、足を保護するための靴の厚さが違うのだ。まだ完全に人の足と生活に慣れていないシラは、その場所によって違う保護靴を履いている。
 しっかりと紐で結ばなくてはならないので、時間がかかる。ようやくまともに立てたときには、カリアラは完璧な外出仕様で玄関に立っていた。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
 名残惜しく、庭の端まで送っていけば、後はひとりで残るばかり。
 シラはあっというまに小さくなるカリアラの背中を、いつまでも眺めた。
 外に行く時のカリアラは、一度も振り返ってはくれない。彼の目にはもう、街と大勢の人間たちしか映っていないのだ。嬉しそうに走る彼の行く先に立てたらどんなにかいいだろう。だがシラはその方法を知らない。
 口の奥に、りんごの酸味が戻ってきた。そういえば、食べかけたあのりんごはどこに置いただろう。床に転がしたままだと、またサフィギシルに文句を言われる。別に何を言われても気にしないが、たまにはちゃんとしておこうかと、なんとなく気が向いた。
「そうだ」
 気がついて口に出す。
「洗濯だってしてあげるわよ」
 今日はとても天気がいい。こんな時、昼になって起きてきたサフィギシルは「もっと早く干せばよかった」と自分の惰眠を呪うのだ。可哀想な彼のために洗濯を済ませておけば、文句どころかシラに対して感謝せざるをえないはずだ。
 シラは久しぶりに足取り軽く家に戻る。ひょんひょんと踵だけ愉快に浮き立ちつつも、転ばないよう用心深く部屋を回り、小さなかごに蓄えられた洗濯物を一つにまとめる。カリアラの、泥と砂にまみれた服は、前の日からサフィギシルが水の中に浸けていた。桶にたゆたうそれも絞って取り出して、シラは大きな山になった三人分の服を抱えて外に出た。


朝‐3

「いい天気ですねぇ」
 陽だまりよりもゆるゆるとした声で、ペシフィロが話しかけた。ほとんど呟きに近いとわかってはいながらも、ピィスは一応相づちを打つ。
「気持ちよく晴れたよなー」
「今日は洗濯物がよく乾くでしょうね。干してきて良かったです」
 なんだか聞いているだけで、もう一度眠りにつきそうな声だ。ピィスは少しうんざりとして、一緒に歩く父を見上げた。ペシフィロは本当に嬉しそうな顔をしている。最近はまともに洗濯をする暇もなかったらしく、今朝は張り切って早起きをして家中のものを洗っていたのだ。溜まっていた汚れ物がようやっと片付いて、肩の荷が下りたらしい。今日のペシフィロはいつもの二倍はのんびりしている。
 そんな彼を見ていると忘れがちになるが、ペシフィロだって苛立つ時もあるし、ささいな理由でピィスを叱ることもあるのだ。だが滅多にないので、今のような彼の顔を見ていると、ピィスには、ペシフィロが一生ほのぼのと洗濯や庭仕事に喜びを見出して生きている人間に思えてくる。
 でもまぁ、それも間違いってわけでもないな。ピィスは心の中で肯いた。
 ペシフィロはのんきに土をいじっているのがお似合いの人間なのに、どうして王城に出勤して、国の上層部のごたごたにまきこまれたり、城内の人間関係の仲裁に回ったり、わがままな国王に手を焼いたりしなければならないのだろうか。
「……あのさ」
「はい、なんですか?」
 ピィスはにっこりと笑うペシフィロに告げる。
「オレが大人になったら、親父を養ってあげるよ」
「…………気持ちは、ありがたくいただきます」
 ペシフィロはいろいろと言いたい言葉をのみこむように肯いた。ピィスとしては本気なのだが、きっと信じてもらえなかったのだろう。ペシフィロは歩きながら「何か変なことを言っただろうか」「変なことをしていただろうか」と自問するようにふわふわと視線を迷わせている。
「ピィスー、ぺシフー、来たぞー」
 上のほうから声がして、親子揃って振り向いた。カリアラが坂道を駆け下りてくる。ああ、とペシフィロが思わず声に出した途端、カリアラは予想通り止まりきれず転がった。
「……なんで学習しないんだよ」
「カリアラ君、怪我はありませんか?」
「びっくりした」
 と、身を起こしたカリアラの体に問題はないようだ。彼は毎日のように転んでいるが、怪我をしたためしはない。サフィギシルが他の人型細工よりも丈夫に作っているのかもしれない。
「あのな、あのな、お前らが見えてな、呼んだらな、転がった」
「うん、それずっと見てたから。本当に毎日同じだよな、お前は」
「びっくりした。でも大丈夫だ」
 これもまたいつも通りの会話をしたあとは、三人で道を行く。毎朝、ちょうど出会えるように時間を工夫しているのだ。お互いに出会えないときは、道が交差する場所でなんとなく待ったりもする。完全に出会えなかった日は、今のところない。
 天気の話から始まる、とりとめもない雑談をしながら歩く。内容は主にサフィギシルと、シラのことだ。カリアラが色々と喋り、ピィスが合いの手を入れる。ペシフィロは微笑ましく見守りながら、カリアラが道を転がり落ちないよう、気をつけて端に立っている。初めは、ペシフィロがカリアラの大きな身振りに殴られたりもしていたが、今はペシフィロも学習して身軽に腕をかわしている。ビジスに鍛えられたかいがあるのか、そういう時のペシフィロは意外なほどに素早かった。
「それでな、シラもな、ぺシフのりんご、今日のはぺシフの作ったやつにしてはおいしい方だって言ってたぞ!」
「……ありがとうございます」
「いつものはすっぱいけどな、今日のはそんなにすっぱくなかった!」
「…………」
 こういう時のペシフィロは、いつも通りぐったりしている。
「お前は本当にいらないことまで言うよな」
「あ! そうだ、シラがな、言っちゃだめって言ってたんだ。あのな、あのな。……どうする?」
「聞かなかったことにしますから、大丈夫ですよ」
「そうか! よかった、それでいいな」
 カリアラは心から安心した顔でペシフィロに笑いかける。ペシフィロは複雑な表情で、なんとかそれを受け止める。ピィスは隣で呆れている。かみ合わない割りにどこかまとまった三人の歩みは、三叉路で行き止った。
 一つは城へと続く道。もう一つは街に行く道だ。ペシフィロとピィスは城へ、カリアラは街へ行く。
 だがカリアラは不安そうに立ち止まった。
「あのな、今日な、グレイスが新しい部品見せてくれるんだ。それでな、ヨルカがクッキー焼いてくれてな、それでな、それでな」
「心配しなくても、オレも午後から行くからさ。とりあえずお前だけ先に行っとけよ」
 今まで三人で歩いてきたのに、突然一人になるのが心配なのだ。群れを第一とするカリアラは、一匹だけでどこかへ行くことを、時おりためらう。
「カリアラ君も、一緒に城に行きますか? 勉強ですから、少し退屈ですけど」
「別にオレはどっちでもいいよ。一緒に授業受けてもいいし」
 ピィスたちについていけば、城で国王と一緒に勉強をして、昼食を取り、それはそれで楽しく過ごすことができる。だがカリアラの心はすでに街に向かっていた。どうしても気になるようで、ちらちらと街の方を見ている。
 ピィスは仕方がないなと笑った。
「じゃ、またあとで合流しよう。みんなに迷惑かけるなよ」
「わかった。行ってくる!」
 行ってらっしゃいとペシフィロに手を振られて、カリアラは街へと駆けていく。心配はどこに行ったのだろうか、鞄を巻きつけた背中はみるみると小さくなった。
 一度だけ振り向いて、大きく手を振る。
「またあとでなー!」
 叫ばれたピィスは苦笑しながら手を振り返し、やれやれと歩き出した。


昼‐1

 そういえば二度寝をしたのだった。サフィギシルは寝床の中で思い出す。なんだか一度目覚めたことが、遠い夢の冒頭のように思えた。それから、長い旅をして、複雑な冒険を経た後に、唐突に目覚めたのだ。ついさっき。
 一度目の目覚めとは違って、今度は意識がはっきりしている。目を開けると同時に覚醒した気分だ。よどみはなく、再びの眠りなど考えられない。サフィギシルはたまたま通りかかったかのような動きでベッドを降りると、小さな窓を開けて光と風を呼び込み、ドアを開け、作業場の窓も開け、廊下の小窓も開き、と次々に家の中を明るくした。
 居間はもうすでに明るくなっている。だが、家具の並びがめちゃくちゃだ。ため息をついて角のずれたソファを動かし、波打つ絨毯を綺麗に伸ばす。布団は日当たりがいい窓辺に並べることにした。今日はいい天気だ。洗濯をしなければ。
 その前に昼食を作らなければいけない。もうすぐシラがお腹を空かせる時間だ。料理をして食べさせて食べて片づけをするころには、もう日が傾き始めてしまうだろう。ああもっと早く起きていればよかったのに、どうしてだらだらと寝てしまうのか。
 そう考えると暗くなる。日差しは眩しく外の世界を照らしているのに、部屋の中にいるサフィギシルまでは明るくしてくれない。光からも時間からも取り残されて、寂しく一人でいるだけだ。
「……シラ?」
 そういえば、と思い出す。彼女はどこにいるのだろう。
 いつもならソファにいるはずなのに、今日は影も形もない。ただ、食べかけのりんごが床に転がっているだけだ。サフィギシルは噛み跡が茶色く変色してしまったりんごを机に置いて、うろうろと家の中を探す。
 カリアラと一緒に出かけたのだろうか。いやそんなはずはない。彼女は人間が何よりも苦手なのだ。特に必要な用もないのに、街に行くはずがない。用があるとも聞いていない。
「靴」
 玄関で気がついた。シラの、室内用の補助靴が脱ぎ捨てられている。外用のものはない。
 だとしたら、外にいるはずだ。庭でくつろいでいるのかもしれない。
 サフィギシルは望みを込めて外に出た。
 シラは、庭のどこにもいなかった。


昼‐2

 どうしてこんなことになったのかと、シラは混乱しながら微笑んでいる。知らない、もしくは親しくない人間に対するときはいつもそうだ。美しい笑顔を見せていれば、大抵の人間はシラに好意を抱いてくれる。
 だが、今シラを囲んでいる「人間」たちは、彼女のことなど見もせずに世間話に集中していた。
「もぉう、ほんっとびっくりしたよぉー」
 何しろ、隣町に嫁に行ったターシャ嬢が、夫の浮気に耐えかねて、とうとう出戻りをしてしまったのだ。
 微笑み続けるシラを押しのけるようにして、聞き手の一人が興味深々に身を乗り出す。
「で、旦那はどうしたの?」
「追いかけてきたんだよ、それが! 昨日の夜中にさ、隣の家のドアをどんどん叩いて、『ターシャ、俺だ、帰ってきてくれ!』ってさ。もううるさくてうるさくて……」
「じゃあ、ターシャもエイナもミゲルも、誰も開けてくれなかったのかい」
 ターシャは娘で、エイナは母親、ミゲルは頑固な父親らしい。
「しばらくは放っておいたみたいだね。だけど、とうとうミゲルが斧を持って出てきてさ、おおわらわさ。旦那は慌てて逃げてったよ。野宿したのか、街で宿を取ったのか、朝になってまたやってきたけどね。うるさくてしょうがないよ」
「それで、今は?」
「持久戦の真っ最中。旦那は旦那でドアの前に座り込んでるし、家の中にいるターシャたちは誰も外に出ないんだもの。ありゃいつまで続くかねぇ」
「外にも出られないんじゃ、エイナも気の毒だ。せっかくの洗濯日和なのにねぇ」
「こーんな美人さんもいるってのにねぇ」「そうそう」
 そこでようやく全員の視線がシラに向く。シラは、このとてつもなくお喋りで、強引で、得体の知れない生き物……農家のおかみさんたちを前に、ひくりと頬を引きつらせた。
 四人だったり五人だったり、入れ替わり立ち代るおかみさんたちは、ほうほうとシラの頭から足の先までを舐めるように見つめる。
「綺麗だねぇ」
「今まで見た女の中で一番だよ」
「おや、アタシの若い頃は?」
「ばっか言うんじゃなーいよ、もう!」
 爆笑。そして一人が「あ、忘れてた」と何かの用事をしに家に戻り、しばらくしてまた別の一人がやってきてはシラの顔について語る。一度いなくなった人が帰ってきたり、子どもを連れた若い娘が母親を呼びに来たり……。誰と誰が親子で、友だちで、隣同士なのか、シラにはもうわけがわからなくなっていた。
 ただ、洗濯をする場所を探していただけなのだ。近くに川があるからそこでいいだろうと、適当な場所で服を水にさらした。すると思いもよらず早い流れに洗濯物を取られてしまい、流れる布を追いかけるうちに、この洗濯場にたどりついてしまった。
 サフィギシルの家からしばらく歩いたところに、農家の集落があることは知っていた。街とはまた少し別の空気が流れる、シラにとっては不思議な場所だ。
 山羊や牛や鶏たちがたくさん飼われている。茅葺きの屋根を持つ家がぽつぽつと集まっている。
 そしてその少し外れに、木組みで枠をこしらえた洗濯場が作られていた。
 屋根が日差しをさえぎってくれるため、水はやけに冷たく感じる。だが暑さの厳しいアーレルの夏には向いているのだろう。今は少し肌寒いので、女たちは少し上流で洗濯物を洗っては、屋根の下に来て雑談に加わった。
 入れ替わりの激しい面々に、また新たな女が加わる。今度は結構な老人だ。
「あれ、どうしたのーこんな美人さん。街から来て迷ったの?」
 穏やかに答えようとしたシラをさえぎり、一番口の回る女が説明をする。
「それがビジス先生とこの、新しい同居人なんだってよ。ほら、若先生の」
「ああ、そうなの、なるほどねぇ。でも若先生は出て行ったんじゃなかったかい?」
「なーにボケてんの、そっちは死んだでしょう。違う若先生だよ、ほら、街の変な奴らがぞろぞろ集まってたことあっただろ」
 サフィギシルに教えを乞いにやってきた、魔術技師たちのことを言っているらしい。
 老婆は足腰こそまともだが、記憶は随分あやふやなようだ。へぇ、そうかいとシラに向き直ると、改めて質問した。
「最近ビジス先生を見ないが、どこに行ったかねぇ」
「だーから死んだって。すーぐ忘れちゃうんだから、この人は」
「ビジス先生はいつもよく効く薬をくれてねぇ。あたしのリウマチは、それでほんとうによくなったんだ」
「は、はあ……」
 シラはどう言っていいかわからないままに発言する。久しぶりに口を挟めたのだが、嬉しくない。とりあえず、いつになったら帰れるのだろうかと、川上に座り込んだ三人を見る。
 「こんなべっぴんさんが水仕事だなんて!」と、洗濯物を奪われて、どのくらい経つだろう。代わりに洗ってくれると言ってはいたが、彼女たちはこちらとはまた別のお喋りに夢中で振り向きもしない。預かったシラの洗濯物は、まだかごに入ったままだ。
 「あんた肌白いから、日に焼けると大変だろ」と、洗濯場の屋根の下に案内されて、混じることの出来ない会議に放り込まれ、こうして時間を過ごしている。
 帰りたい。心の底から、帰りたい。シラは遠い目をさまよわせた。
 ふと、その視線が見慣れた人影を見つける。猫背で、おそろしげに様子を伺いながらこちらに近づいているのは、紛れもなくサフィギシルだ。シラは思いきり手を振った。
「サフィさん、ここですー!」
 遠いサフィギシルがびくりとする。瞬間的に逃げようとしたので、シラは無言の圧力を投げつけた。かなり離れているが伝わったようだ。サフィギシルはくるり回りかけた足を戻し、一歩ずつ、おそるおそる川を沿って下ってくる。
「ああ、若先生だ」
「若先生ー! うわあ久しぶりだねぇ」
「馬鹿だね、初めましてだよ。あれは違う若先生なんだから」
「だけど、どこが違うんだい」
「わかんないけど、とりあえず悪い子じゃあないってペシフィロ先生が言ってたよ」
 若先生ことサフィギシルは、何度も何度も怯えに立ち止まりながら、そのつどシラのおそろしい微笑みに足を掴まれるようにして近づいてくる。ようやくたどり着いた時には、洗濯場の女たちは、とりあえずは一通りの「新しい若先生」についての知識を共有していた。
 サフィギシルは、遠慮もなく全身を見つめてくる女たちを前に、小さく声を震わせる。
「こ、こんにちは」
「まあ、ほんとそっくりだこと!」
「ねぇやっぱり家出した若先生が帰ってきたんじゃない?」
「いやあ、だけどちょっと若いわよねぇ。気のせいかね」
 次々と投げかけられる言葉に、サフィギシルは絞りつくされた洗濯物のような顔でシラを睨む。曰く、なんでこんなとこに来たんだよ、と。シラは視線だけで、仕方がないでしょうと言い返した。
 散々女たちの好奇心にもまれたところで、サフィギシルがなんとか切り出す。
「あの、その、そろそろ昼飯の時間なんで、帰らないと……」
「そ、そうそう。そうですね。もう随分長居してしまいましたし」
「じゃあ、うちで食べていけばいいよ」
 とんでもない申し出に、シラもサフィギシルも力強く首を振る。
「そんなっ、これ以上お世話していただくわけにはいきませんから!」
「も、もう作ってあるし、残すのはもったいないので!」
「そんなの大丈夫、うちのご飯は美味しいよ。ささ、遠慮しないで」
「うちでもいいよ」「うちだってご飯はたくさんあるよ」
 右から左から手が伸びて、二人の腕を引いていく。どんなに逃れてもまた新たな誘いが生まれて尽きてくれる気配がない。ああどうしよう、絶体絶命だと二人が顔を見合わせたとき、川下から奇妙な絶叫が聞こえた。
「ターシャアアアア!」
 男の声だ。全員が一斉にそちらを向く。
「許してくれ、許してくれなきゃ俺はここで死んでやるうー!!」
「やめて、やめてあなたぁー! お父ちゃん離してっ」
「お前みてぇな腐れ外道、今すぐ勝手に死んじまえ!」
 とてつまない修羅場がすぐ下手で始まっている。
「ターシャだ!」「えらいこっちゃ」「あんた、やめな!」
 女たちはたちまちに駆け出して、洗濯場から消えてしまった。
 残されたのは、呆然とするシラと、サフィギシルと、洗濯物と、のんびりと座り込んだ老婆が一人。
「……行かなくていいんですか?」
 シラが訊くと、老婆は呆れたように口を鳴らした。
「いーぃの。よくあること、よくあること」
 よくあってはいけないことのような気もするが、長い間ここにいれば、似たようなことは繰り返されているのかもしれない。
 今のうちに帰ろうとしたシラを、ひっ、という悲痛な声が引き止める。
 同じく逃げようとしたサフィギシルの手を、老婆が掴んでいたのだ。
「せんせ、はあ、よく似ていらっしゃる。ほんとうにねぇ、こんなこともあるもんだねぇ」
「は、はい……その、前の、若先生? とは、まったく同じに作られたので……」
「ちがーうよ、似てるのはね、ビジス先生」
 怯えるサフィギシルをぴしゃりと叩いて、老婆は楽しそうに笑った。
「あんたの手、ビジス先生によう似てなさる。立派な手だ」
 息を呑むサフィギシルの手のひらを、しわだらけの指でなぞっていく。
「この手がね。ビジス先生が、この洗濯場を作ってくれたんだ。石を積んで、水をためてねぇ。いい水が来るんだ、ここは。洗い物もできる。飲み水も汲める。みんなでこうして話もできる。いいものを作ってくれなさった」
 擦り切れた黄土色の爪が、しわがれた硬い手のひらが、サフィギシルの手を包む。
「ありがとう。よく来てくださった。ありがとう」
 何も、言うことができなくて、サフィギシルはしゃがみこんだ姿勢のまま、ただ目を見開いていた。


 たくさんの卵と、山羊の乳と、野菜を抱えてサフィギシルは歩いている。シラはその隣で、洗い終わった洗濯物の塊を半分運んでいた。絞っているとはいえとても重いので、もう半分はサフィギシルが担当している。とはいえ彼に力があるわけではないので、しばしば荷物を交換しては、のろのろと帰り道を歩いた。
「いい人でしたね」
「うん」
 放置されているとばかり思っていた洗濯物も、実はとっくの昔に洗われていた。
 ターシャとその旦那はよりを戻し、父親の怒りもなんとか収まった。
 みんなで昼食を食べた。
「……ビジスさんも」
 シラは、なんとなくそう続けた。
 消え入るような声で、サフィギシルが肯く。するといきなり、彼はその場にしゃがみこんでしまった。腕からこぼれ落ちた野菜が地面に転がる。卵のかごが、山羊乳の袋が置かれる。
「ど、どうしたんですか」
 サフィギシルは答えない。俯いて、小さくなって顔を隠している。
 ちらりと覗いた耳が、頬が、照り映えているのが見えた。
「……思い出して赤くなるの、やめてくださいよ」
 似ていると言われて。ありがとうと、手を包まれて。
 泣くのを我慢しているのだろうか、サフィギシルは顔に手を押し付けている。
 転がった野菜を拾い集めて、シラは彼の肩にそっと触れた。


夕方

 そろそろだ。サフィギシルは料理する手を止めた。夕食はもうほとんど完成している。必要な食器はシラが並べてくれているし、後は盛り付けるだけだ。ちょうどいい時間である。
 毎日このくらいの時間になると、サフィギシルは緊張する。誰か、特別な客人が来るわけではない。戻ってくるのはカリアラと、ピィスが付いてくるくらいだ。顔ぶれに問題はない。
 問題なのは、カリアラの「お土産」である。
 カリアラは一日に最低一つはお土産を持って帰る。シラやサフィギシルに向けたそれは、石ころだったり、魚だったり、海草だったり、犬が土の中に埋めて隠した骨だったりと様々だ。様々だが、相手の好みや迷惑など考えていないという点ではまとまっている。
 さて、今日はどんなお土産を持って帰るか。そしてカリアラ自身はどのくらい汚れているのか。泥まみれか、はたまた水浸しか、果たして。
 審判を告げる鐘のように勝手口がノックされ、返事をする間もなくカリアラが姿を見せた。いつも、帰る時は台所に繋がる勝手口からと決めているのだ。どんなに酷く汚れていても、土間の上ならたいした被害も受けなくて済む。頭から水をかけることもできる。
 今日は、なんとも幸運なことに、カリアラは汚れていなかった。
 まったくもって綺麗なものだ。服の皺は伸ばされ、肌も心なしかつやをおび、色あせていた金髪は輝きを取り戻している。
 カリアラは、背中にあるはずのない後光を背負って、元気よく声を出した。
「ただいま!」
 後光が差している。物理的に。
 何者かに改造されて、大きな輪と直線で作られた発光体をくくりつけられているのだ。背中に。
「何されてんだお前はー!!」
「なにがだ?」
 きょとんとするカリアラの背の後光のまた後ろから、ピィスがひょこりと顔を出す。
「なー。すごいことになってるよな、これ」
「他人事みたいに言うな! お前も一緒にいたんだろうがっ」
「いや、オレはね、カレンと本の貸し借りとかしてたんですよ。可愛らしくね。そしたらその間に、技師連中の合同作業で、こんなんくっつけられてたみたいで」
「みたいでじゃねーだろ! 輝いてるじゃねーか!」
「ちがうぞ、サフィ。これはまだ光るんだ」
 ほら、とカリアラが自分の前髪を持ち上げる。するとそこには、赤い、よく目立つスイッチが付けられていた。
 大きめの表面には「押す」とだけ書かれている。あえて書くまでもない内容だ。
「押せ」
 あえて説明するまでもないことをカリアラが言う。
 断固拒否する表情のサフィギシルを見て、カリアラは仕方がなく自分で押した。
 ぺからぺっからーん。と、よくわからない音がして、後光が金色に輝く。確かに「まだ光る」。確かに「まだ光る」。確かに「まだ光る」。三倍程度だ。
「飯の前に、元に戻すぞ!!」
「なんでだ!?」
 強そうなのにとカリアラが言う。サフィギシルが聞くはずがない。カリアラの腕を引いて作業場に連れ込むと、シラとピィスが覗き込むのを遮断して力強くドアを閉めた。
「ったく、技師のやつらにほいほいと触らせるなっていつも言ってるだろ! とんでもないことになったらどうすんだ」
「でもな、これな、すごくてな」
「すごくない!」
「強くてな」
「強くない!」
 苛立ちを抑えきれずコツコツと机を叩く。大人しく作業台に乗ったカリアラが、輝きの少ない後光と共にサフィギシルに近づく。
「これ、取るのか?」
「当たり前だろ。残してどうする」
「でもな、これがあるとな、子どもがみんな喜ぶんだ。いっぱい押して笑うんだ」
「だからなんだよ、もう充分遊んだだろ」
「まだだ」
 言い切られて、サフィギシルは振り向いた。
 カリアラは真面目な顔をしている。
「まだお前が押してない」
 怯んだ隙間を埋めるように、カリアラが額を突き出す。サフィギシルの目の前に、赤いスイッチが現れた。押す。あまりにも簡単な指示が書かれている。押す。押す。押す。
「押せばいいんだ」
 カリアラは自らのスイッチを差し出している。これが現実かそれとも悪い夢なのかわからなくなりながら、サフィギシルは白抜きの文字を見つめた。押す。押す。押す。

  ぺからぺっからーん。

 神々しい光を受けて、サフィギシルは突き出した指を恥ずかしげに回す。薄暗い部屋の中にまばゆさが満ちていた。なんとなく、笑ってしまう。こんなものを体験したら、笑うしかないだろう。
 ぎこちなく頬を上げるサフィギシルを見て、カリアラは満足そうに笑った。
「おみやげだ!」





 なんだか悪い夢を見たような気がする。サフィギシルはぐったりと机に伏した。
 だがすべて紛れもない現実で、部屋の隅にはカリアラから剥ぎ取った後光と部品が静かに横たわっている。魔力による供給源、つまりカリアラから切り離したので今はもう光らない。
 カリアラの体の修正を終え、遅くなってしまった夕食をみんなで取り、ピィスを迎えに来たペシフィロとちょっとした仕事の話をすると、作業場に一人でこもった。
 本を読んでいるうちにいくらか眠ってしまったらしい。いっそ後光やスイッチが夢であればと思ったが、そう上手くはいかないらしかった。
 無理な姿勢で眠ったから、体が変に固まっている。冷えた肌を手のひらで温めながら伸びをして、サフィギシルは居間に向かった。もう明かりは落としてあるが、暗闇は何も見えないほどではない。
 シラはもう眠っていた。やわらかな髪がたなびいている。その端を掴んで、カリアラは頭まですっぽりと毛布に埋まっている、はずだ。今日も毛布が同じ形に膨らんでいるので、まあ間違いはないだろう。
 二人を起こさないように、サフィギシルは寝床に入る。シラの隣のカリアラの、さらに隣だ。カリアラを真ん中にして眠ることになる。
 びく、と自分の毛布にかけた手が驚く。隣の毛布の膨らみから、カリアラが顔を出したのだ。のぞいた額には当然もうスイッチはない。
「ごめん、起こしたか」
 そう言いながらもサフィギシルはわかっている。眠りの浅いカリアラは、いつだってわずかな気配を感じるとすぐに目を覚ますのだ。
 カリアラは、まったく眠たそうに見えないいつも通りの円い目で、サフィギシルを見上げた。
「よかった」
 ひとりではなく群れの中に戻ってきて。そう、続いたような気がした。
 これで安心だと言わんばかりにカリアラが息をつく。ぷか、と丸い空気の沫が、天井へと昇っていくように見えた。カリアラはふと気づいたようにサフィギシルを見て、笑う。
「お前も光ってるな」
 何が、と訊く前に理解した。カーテンを閉め忘れた窓からは、月光が差し込んでいる。青く、白いその光が、サフィギシルの髪を銀色に見せているのだ。シーツや枕と同じように。
 カリアラはそれだけ言うと、また毛布の中に戻る。
 残されたサフィギシルはなんとなく髪に手をやって、むずむずと結んだ口を動かすと、勢いよく毛布を被った。
 余計なことばかり考えてしまう前に寝てしまうことにする。
 目を閉じる前に、そういえば今朝、もう三人で眠るのはやめようと決めたのだと思い出す。とても遠い昔の、意味のない決意のようだ。やめられるはずがないのに。
 諸手を上げて降参する気持ちで目を閉じる。
 訪れた眠りの入り口で、ぺからぺっからーん。と、能天気な音が聞こえた気がした。

[終わり]

at 03:24, 古戸マチコ(こと・まちこ), 人なる・過去見・ハヴリア

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