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同人誌からの再録「Mother,you are right.」

 ふと、思い出しましたが「毒の効用」の同人誌に書き下ろした短編で、最後の一編だけまだweb再録していないのでした。
 何故かと言えばそりゃ本編の今後のネタバレになるからで、いきなりそれ答え見せてどうすんねんと自粛していたのですが……なんか最近もうばればれというか、公然の隠し事状態になっている気がしないでもないので、ここに再録しておきます。

 いやしかし、2006年7月に出した本ですか……ざっと5年近く前。思えば遠くにきたものです。

 同人誌版「毒の効用」自体はまだ数えるくらいには残っているのですが、売るにも配るにもやりづらい数なので、今のところどうするかは考えておりません。
 書き下ろし含め、収録内容は今回の再録ですべて読めるようになりました。

 短編「捜して、捜して、捜して。」(さらに後日談)
※ダウンロード版などは人喰い魚が人になる過去編目次にあります。

 これにプラスして、人喰い魚が人になる本編よりも未来の話として書き下ろしたのが「Mother,you are right.」です。将来的に誰と誰がどうなるのか、というあたりがネタバレです。

 ネタバレとかかまわないよ〜という方は、よろしければ続きからどうぞ。



「Mother,you are right.」

  山道には整備がなく、馬車をひどく揺れさせる。田舎道にはありがちな、車輪が無秩序に石を踏む響きの中で、居合わせた人々は不審に視線を交し合った。顔ぶれの変わるはずもない乗合馬車に、今日はどういうわけか三人も知らない客がいる。しかも、そのうち二人は異国人だ。辺境に住む彼らにとって、それは言うまでもなく滅多にない事態だった。
 一人は女で、ヴィレイダ人らしい特徴をしてはいるが、そのあたりで野良仕事をしている娘たちとは佇まいが違っている。質のいい身なりは都会で揃えたものなのだろう。帽子から靴の先までを清潔に整えている。
 対して、彼女を囲む二人の男は誰から見ても不可解だった。一人はクスキの血筋らしいが、全身を黒一色で執拗に隠している。肌を見せているのはせいぜいが顔ぐらいのもので、かろうじて見えるそこは、病人のように青白かった。わずかな隙間ですら人に見せたくないのだろうか、壁に縋る格好で頬を覆っている。
 最後の男はもっとも理解に苦しむところで、その外見はどの国のものとも違うように見えた。だからこそ彼は皆の視線を一身に浴びていたが、気にかける様子はなく、随分と眠たげに席の奥に沈んでいる。時おり、ちらりと片目を開けてみては、重たそうにまた閉じた。
 さあこの三人が我々の村に何をしに来たのだろうか、と居合わせた十名足らずは憶測に花を咲かせたが、異邦人たちとの別れは意外にも早く訪れる。皆がいつも下りている村の入り口よりも早く、普段は寄ることのない場所で、馬車が動きを止めたのだ。女が御者に礼を言って楽しげに飛び降りる。鈍い動きで続く男たちを見送りながら、誰もが目を丸くした。
 その丘の先には貴族の別宅があり、かつては村の者たちに幽霊屋敷と呼ばれていた。今は誰も住むものがなく、手入れのものが通う以外訪れる者などいない。謎はまだ解けないというのに馬は歩みを再開する。堪えきれなくなった何人かが首を出し、丘に向かう彼らを見た。
 朽ちかけた郵便受けの隣で娘が振り返る。茜色の長い髪が風に吹かれて舞っている。帽子を押さえながら彼女はまっすぐに彼らを見た。その、不可思議な緑色の瞳で。
「ポートラードだ!」
 驚いた一人が叫ぶ。続いてわく声がある。
「あんた、ペシフィロの!」
 娘は母親譲りの顔で笑い、深々と礼をした。
「父がお世話になりました!」
 わあっと誰もが立ち上がり、馬車は壁が膨らむほどに盛り上がる。あの男の娘をもう一度見ようと大勢が身を乗り出し、口々に声をかけた。大きくなって。お父さんはどうしてる。終わったら遊びに来いよ。娘は楽しくてしかたがないのだろう。くすくすと笑いながら手を振っていたが、最後にまた礼をして丘の上へと駆けていった。



 レナイア・ポートラードが生きたその建物は今も伯爵家の手元にあり、近くの村に住むものに一切の管理を任せている。レナイアが見た景色をそのままに残すよう、手を加えることは許されず、その屋敷は現在でも昔のままに佇んでいる。



「え、ここ?」
「はい」
 にわかには信じがたく訊ねると、スーヴァはいつものように答える。彼の返事には否定というものが滅多にないので、ピィスは果たして本当なのかとすぐには受け入れられなかった。それほどまでに、案内された場所は粗末すぎたのだ。部屋というにはあまりにも風化している、放置された離れ小屋。母屋はともかく、こちらは誰も手入れをしていないのだろう。土を固められた床は雨に表面を減らしているし、年老いた煉瓦は触れるだけで砂になってしまいそうだ。
 足を踏み入れると異臭がして、ピィスは連れの男と一緒に揃いの動きで息を止めた。
「こんなところに、二年も……」
 かつて、この部屋には若きペシフィロとスーヴァが暮らしていた。だが、家具らしきものは見当たらないため、当時の生活を想像することはできない。ピィスはどこに父を探せばいいのか、戸惑って首を回す。
 するとスーヴァが持ち込んだ木箱を並べ、その上に藁を敷いた。ここです、と指をさすが、ピィスも連れも、それが一体何なのか言われるまでわからない。まさか、簡単に作られたそれがペシフィロの寝床だとは、想像もつかなかったのだ。
「え、本当に? こんなところで寝てたの? ずっと?」
「こんなに小さかったか? ちょっと待て。……ほら、足が」
 実験として横になった男のかかとは、落ち着く先を得られずに宙に浮かされている。横幅も、彼が眠るには狭すぎたようだ。寝返りを打つこともできず、難しく身をよじる。
「こんなに小さかったっけ? だって、いくらなんでも……」
「当時はさらに背が低かったはずです。アーレルに行き、伸びたと聞いております」
 なるほどと呟いて、ピィスは改めて想像した。
「じゃ、こんな小さい二十歳と、お母さんが出逢ったわけだ」
 まるで子どものようだっただろう。三十歳のレナイアは、一体どんな気持ちでペシフィロを迎え入れたのか。考えるほどに不思議になって、ピィスは連れの肩を揺する。
「ね、代わって」
 入れ替わりに寝そべると、予想外にぴったりと箱の上に納まった。ああ、昔の父もこのくらいだったのかとピィスは不思議な思いがする。男としては他の者より小柄だったが、彼女にとってペシフィロは自分よりも大きな人だったのだ。
 不便なことの多いこの身長で、当時の彼はどんな毎日を過ごしていたのだろう。レナイアの顔は頭上にあったに違いないから、何度も背伸びをしたかもしれない。小さな彼にとって、体格のいいヴィレイダ人ばかりの村はどんなに恐怖だっただろう。そう思うと、小ぢんまりとした場所を好む彼にとって、この場所は丁度いい大きさだったのかもしれなかった。
 藁のベッドで目を閉じて、ペシフィロの気持ちになってみる。彼は毎晩、この子どもが作った隠れ家のような寝床へ横になり、吹き抜けの天井に闇を見てはまぶたを閉じたのだろう。時には雨漏りがあったかもしれない。そんなときはどうしたのか。寝そべって、ふと横を見ると、そこにはまだ幼さを残すななが座っていたのだろうか。
 飽きることなく過去に思いをはせていると、執拗に肩を揺らされた。目を開けると、連れが覗き込んでいる。
「行くぞ」
「ううん、もうちょっと」
「なんだ。まだ何かあるのか」
 不可解に問われても、言葉にできる答えはない。ただ気持ちとして離れるには早く、もう少し、父の足跡を探したかった。だが、この男にどうやって伝えればいいかわからない。ピィスは諦めて身を起こした。
「じゃあ、行こっか」
 彼は振り向きもせず小屋を出る。ピィスが未練を残しているのに、気がつこうともしてくれない。
「なんだよ、もう」
 そういえば彼は初めからあまり乗り気でなかったのだ。ここに来ることが決まってから、口数が減ってきている。一日中上の空で、期待を隠しきれないピィスが話しかけると、どこか不機嫌そうにしていた。夜もあまり眠っていないようで、妙に眠たそうにしている。
 不安げにスーヴァを見るが、彼もまた何故なのかわかってはいないのだろう。ピィスは諦めの息をついて、遠ざかる背を追いかけた。いつもならば、彼女が来るまで待っていてくれるのに、今日ばかりは全力で走らなければ追いつけない。母屋へと移りつつ、息を切らして文句を言おうとしたところで、ピィスは目を見開いた。
「知ってる!」
 不満などすべて忘れて、踏み込んだ母屋の廊下を走る。
「憶えてる! そう、ここ! ここに住んでたんだ、あたし!」
「ここ?」
 壁を撫でる男の手を引いて、奥へ奥へと進んでいく。
「そう、そうだよこんなだった! 憶えてる憶えてる、こっちに行くと花の部屋があって……ねえ早く! ほらっ」
 まだ廊下が気になるらしき彼を前に進ませる。ひとつめの部屋は草花の壁紙でぐるり囲われ、花蔦のランプが置かれている。ピィスはガラス製の細やかな花弁を垂らすそれに心ではしがみつき、再会の歓声を上げる。実際にそんなことをすれば壊してしまうだろうし、恥ずかしいので見つめるだけだが、口を閉じるのは忘れていた。ピィスは目を輝かせて次々と部屋を行く。通路状に繋がった個室はすべて違う色と景色を持ち、それぞれに「森の部屋」「水の部屋」と懐かしい呼び名を挙げながらさらに奥へと扉を開く。懐かしいものを見つけてはそれにまつわる思い出を語り、こんなにも小さな部屋だったのかと驚いて、置かれている品々を見ては、こんなにも高級なものだったのかと騒ぐ。夢見るように駆けては止まり、またはしゃいで次へと進む。
 ふと、連れがいないことに気づいて振り向けば、彼は二つ前の部屋で開け放したドアと対峙している。まるでその扉が話しかけているのだというように、近く見つめ、顔を離し、角度を変えてまた覗く。
「なんだよもう、早くこっち!」
 呼ぶと、途中の部屋の壁や窓をひとつずつ観察し、時間をかけてやってくる。じれったく待ち構えていたピィスはまた彼の腕を引いて、最後の扉を開け放した。
「ほら。ここがお母さんの部屋!」
 満たされた午後の光が身を二人を撫ぜる。一瞬、目を細めたほどに明るい室内。これまでとは違う広さのそこには、ガラスをつなぎ合わせた窓がいくつも並べられており、中央にはその光に包まれるようにして、天蓋つきの寝台が据えられている。まとめ上げられた紗の幕が枕元を隠していた。先に入ったピィスが振り向くと、手を引く男は固まっている。
「どうしたの?」
 丸まった彼の眼は、寝台に釘付けられていた。もう一度問おうとするが、それよりも早く足を引かれる。
「駄目だ」
 呆然とした拒絶の声。
 彼は満ちる光に押されるように、後足で部屋を出る。そして、そのまま開け放たれたドアをいくつも越えて姿を消した。
「なんだよ、おい!」
 叫んでも彼は既に見えない場所まで戻っていて、返事をする気配もない。ピィスは、どうしていいかわからなくて、扉を強く握りしめる。
「あいつ、どこ行った」
「連れて参りましょうか」
 スーヴァの申し出にうなずきかけて、やめた。吐き捨てる動きで首を振る。
「……いい。どうせ、通じない」
 きっと、連れ戻したところで何が変わるわけでもない。彼はいつもそうだった。こちらから文句を言ったところで、素直に受け入れる性格ではないのだ。どうとも思っていないことならばともかく、彼なりの考えがあるときには、干渉は無駄でしかない。長い付き合いで、ピィスはそれをよく知っている。
 いつものことだ。わからない彼が答えを見せてくれるまで、周囲のものはただぽかんとすることしかできない。独特な彼の世界は、外側から見抜けるほどわかりやすくはないのだから。
 慣れているはずのことに疲れを感じて、ピィスは重く眉を寄せた。
「連れてこない方がよかったのかな」
 常に傍にいてくれる影に問う。
「なんか、あたしばっかり楽しんでるし。あいつにしたら全然関係ない家じゃないか。そんなところに連れてきても、一緒に楽しめるわけないよね」
 だが言葉とは違う顔をしている。彼女は影を見ずに続けた。
「でもさあ、こっちにとっては大事な場所なんだよ。ななにとってもそうだろ? ずっとここに住んで、お母さんの面倒見て。そういう思い出が詰まった家なんだ。……でも、あいつにとってはそんなことどうでもよくて」
 うつむいた目はいなくなった姿を捜して遠のくが、彼を見つけることはなかった。掴んでいた扉を、なぞる。
「……噛みあわないよ、なんか」
 やっぱり連れてこなきゃよかったと口の中で呟いて、ピィスは壁にもたれかかる。
「なな」
 幼い頃からの呼び名で影を呼ぶ。
「お前、まだあいつのこと認めてないんだろ」
 返事はなかった。ためらいが沈黙として流される。ピィスは、彼が答えを出す前に首を振った。
「ううん、いいや。庭に出てくる」
 もう一度母の居場所を見回して、部屋を出る。落ち込んだ音を盛り上げるかのように先々で歓声を上げたが、どれもぎこちなくうわずった。



 消えた男を捜しながら、スーヴァはピィスに問われたことを繰り返し考えている。あの男を認めているか。答えとしては簡単で、正直に言ってしまえば「はい」の一言で済んだ。ピィスにしてもそれはわかっているのだろう。だがどうすることもできていない。
 スーヴァは懐かしい屋敷の中を見回した。かつて、ここではレナイアが、ペシフィロが、ピィスが、スーヴァが、毎日を過ごしていた。だからこそ皆の記憶には屋敷の細部がこびりついているし、ここにいた日々のことを決して忘れることはない。さまざまな出来事を経て、この家と人は共に笑い、嘆き、深く棲みついてきたのだ。
 そんな中に、どうして他人であるあの男が入れるだろう。彼はこの家のことを何ひとつ知らないし、興味もないに違いない。そうでなければ、あんなにもぞんざいな行動を取るはずがないのだ。ピィスが違和感を拭えないのも無理はない。
 おまけに、彼はレナイアの寝室を拒絶した。あの部屋はこの屋敷の中心であり、スーヴァにとっては聖地にも近い場所である。レナイアはあの部屋で何十年という日々を過ごした。中央に置かれた寝台ではさまざまなことがあった。ペシフィロと出逢い、二人でいくつもの夜を過ごした。ピィスが生まれ、懸命に育てていった。そして最後には、永遠の眠りにつく。彼女の人生はすべてあの中に刻まれていた。
 それなのに、彼は部屋に入ることすら拒んだのだ。そんな男を、どうして認められるだろう。
 今度こそはあれをピィスから離さなければ、と策を練り始めた目が留まる。今まで何をしていたのだろう。男が、妙に焦りながらこそこそと廊下を進んでいた。使影にとって、気配を消して追うことなど造作もない。スーヴァは相手に気づかれることのないまま、ぴたりと彼の動きを探った。
 たどり着いたのは、先ほど彼が厭がった、レナイアの寝室だった。閉じられた扉の前で、男は深く息を吸う。随分と緊張しているようで、ぶつぶつと呟いては苦しげに目を閉じた。
 男が背に隠しているものを見て、スーヴァは彼を殴りたくなる。一体それをどうする気かと問い詰めたいが、それよりも今は泳がせて探るべきだろう。さんざんの深呼吸を経て、彼は身なりを整えた。
 よし。と小さく呟いて、慎重にノックをする。誰もいない部屋の中から返事があるはずもない。それでも、まるで了解を得たかのような間を置いて、彼はそっと扉を開けた。
「失礼します」
 うわずる声。土をきれいに拭った靴で、一歩ずつ中に踏み込む。光の満ちる寝室はまるで教会のように清廉で、男も、後を追うスーヴァも、おのれを恥じるかのように息を潜めた。男は寝台へと歩いていく。随分と真面目な顔で。枕元で足を止めた彼は息を吸い、とたんに明るい笑みを浮かべた。
「お義母さん、初めまして!」
 驚くスーヴァの前で、彼は深く礼をする。上げた顔いっぱいに人懐こい笑みがたたえられていた。それを見た誰もが彼を好きにならずにはいられないだろう。そう思えるほどにこころよい面持ちで、彼は元気よく名を告げた。職業も、その身分も生き方も。自分がどんな人間であるかを簡単に説明し、猝椶料阿砲い覘瓮譽淵ぅ△帽陲欧襦
 そして、大切なことを伝えた。
「お義母さん。僕はこのたび、お嬢さんと結婚することになりました」
 まとめられた幕の向こうから反応があるはずもない。それでも彼は真面目な顔で、熱心に訴える。
「なりましたというか、します。他の誰が反対しても、絶対に一緒にいきます。だから、お嬢さんを下さいとは言いません。申し訳ありませんが、あなたが反対しても連れて行くし、もし逆だとしても僕がピィスに連れて行かれる」
 少し、間を置いて彼はうなずいた。
「はい。だいすきです」
 赤らんだ顔が溶けてしまいそうにゆるみ、彼は慌てて頬をこする。そうだ、と忘れかけていた贈り物を差し出した。
「これ。本当はうちからもってくればよかったんですが、旅が長くて。すみませんが、そこから摘ませてもらいました」
 シーツの上に鮮やかな色を乗せる。赤いもの。黄色いもの。白いもの。紫のもの。それはさまざまな種類の花たちだった。無造作に摘まれたそれを並べ、彼は満足そうに笑う。
「庭、とてもきれいですね。いい花がたくさん咲いてる。これ、全部アーレルにもあるやつです。ピィスと一緒に住んでる家にも、同じのが咲いてます。これ、すごく好きだ」
 その花が何であるか彼は知らないのだろう。誰が贈った種なのか。なぜアーレルの庭にも同じものがあったのか、疑問に思うこともなく彼は笑う。たくさんの花に囲まれた目には見えないレナイアに、彼は姿勢を正して告げた。
「今日は、自己紹介と報告の他に、もうひとつあります。どうしても伝えたくてここに来ました。練習したけど、ヴィレイダ語が下手くそで、わからなかったらごめんなさい。聞こえやすいように、ゆっくり言います。大切なことだから」
 うなずくような間を置いて、彼は落ち着いた声で語り始める。
「僕は、ピィスに何度も救われました。彼女がいなければ、きっと生きてはいられなかった。たくさん苦しいことがありました。だけど、ピィスがいつも助けてくれた。僕だけじゃない。いろんな人が、彼女のおかげでしあわせになっています。ピィスもつらいことがありました。だけど、今はとてもしあわせ。だから僕もしあわせで、みんながとても嬉しいです。だって、ピィスがいるから。ピィスが生まれてなかったら、こんな歓びはなかったし、僕も生きてはいられなかった」
 湧き上がる喜びを抑えきれないかのように笑い、彼は深く礼をする。
「あなたがピィスを産んでくれたから、僕はこんなにしあわせです。僕たちはこんなにしあわせです。ありがとうございます。あなたが彼女を生み出してくれて、よかった」
 彼は透明なレナイアをまっすぐに見つめて言った。

「お義母さん。あなたは正しい」
 スーヴァは、ただ呆然と彼らを眺める。
 彼は何も知らないのだ。レナイアがどんなにその言葉を求めていたか。病に冒された体で命を送り出すのが本当に良いことなのかと、誰彼なく訊ねたかった。それでも彼女の問いに答えてくれるものはなく、レナイアは不安なまま、ずっとこの寝台の中で。
 花に囲まれたそこに、彼は頼もしく微笑みかける。
「ここはとても綺麗だけど、ひとりでいるのは寂しいでしょう。だから、また逢いにきます。何度でも、何十年経ったとしても、ピィスと一緒にここに来ます。もういいって言われてもしつこくあなたに逢いに来ます。だから、待っててください。今日帰っても、次の時を楽しみにすればきっとここも寂しくない」
 その言葉にどんなに救われたかも。花を植えさせ、何度同じ台詞を影に繰り返させたかも、この男は知らないはずだ。まさか特別なものなのだと気づいてもいないだろう。それなのに彼は思惑など何ひとつなく、物事の真芯をとらえる。
 まるでレナイアの喋りを受け止めるかのように耳を澄まし、彼は「はい」とうなずいた。
「バカ犬のこともご心配なく。今はあんなですが、きっといつかあの影を喜ばせてやりますから。絶対ですよ。いつか、あなたが心配しなくても済むぐらい面倒を見きってやる」
 間違いないというように背を正すと、彼は往年のビジス・ガートンのように笑った。
 目には見えないレナイアも笑っているに違いない。頼もしいわとそう言って、よろしくねと微笑むのだ。かろやかに響く声までもが聞こえてきて、スーヴァは明るんだその場へと、一歩足を踏み込んだ。
 レナイアと歓談する男の背に声をかける。
「ご主人様」
 びく、と揺れて彼は飛びのくように振り向いた。
 張りつめた顔立ちがみるみると赤くなり、酸欠のごとく口を動かす。
「なっ、おまっ、みっ」
 まさか聞かれているとは思わなかったのだろう。どうやって誤魔化そうかと意味もなく手を振って、ちが、いや、と繰り返したところで彼はふと動きを止めた。
 呆然と、静かに立つスーヴァを見る。
「……今、なんて言った」
 影は何も答えない。踵を返して出て行こうとする腕を掴み、男は興奮に頬を彩らせる。
「なあ! お前さっき、なあっ!」
 スーヴァはこれ以上ない早足になるが彼はどこまでもついてきて、しつこいことこの上ない。あげくの果てには妻を探してやたらな大声で叫ぶ。
「ピィスー! なながおれのこと、ご主人様って」
 後頭部を殴ると悲鳴を上げたが、それでも男は嬉しい顔をやめなかった。
「なあ、なな。おれな、おれなっ」
「行きますよ。貴方には奥様に謝って頂かなければならない」
「言ったよな、絶対さっき言ったよな! おい待てよ!」
 無邪気な子どものようについてくる彼を、スーヴァはどう打ちのめすか考えながら歩いていく。昔からこの男はことあるごとにスーヴァにかまい、まるで懐いているかのように遊びをもちかけてくるのだ。何度でも、繰り返し。それが懐かしい感覚だと思い出さないはずがない。
 だから、この男は苦手なのだ。
 ぐるぐると室内を巡ったあげく、スーヴァは一礼をしてレナイアの部屋を出る。追おうとした男は慌てて入り口の扉を掴み、そこにいるレナイアに笑った。

「また来ます!」


[おわり]

at 18:20, 古戸マチコ(こと・まちこ), 人なる・過去見・ハヴリア

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