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「ただ、そこに居るだけの」(「うたう鳥のよる」番外編)

 一迅社文庫アイリス様より発売中の「うたう鳥のよる」の番外編を書きました。
 前回掲載の「ゆるしのうたげ」は本編後の話でしたが、今度は本編より過去の、十一歳のリヤーフと、子守をするジンの話です。
 本編のネタバレを含みますので、「うたう鳥のよる」読了後にどうぞ。

 ※あっさりとですが、一部流血・残酷表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。

『ただ、そこに居るだけの』

 思えば昔から、ジンは適当な生き物だった。
 リヤーフがまだ名前もなく、ハレムの女たちの目にも見えない透明な風として生きていた幼い頃、可愛がっていた猫が死んだ。リヤーフと同じ頃に生まれたというその猫は十一歳で死んだのだから、猫としてはそれなりに生をまっとうしたのかもしれない。
 だが女たちからも、伯母からも、他の動物からも、手を伸ばせば伸ばした分だけ避けられるリヤーフにとって、その猫は唯一の友だったのだ。ずっと側に居てくれた弟も鳥籠に閉じ込められてしまい、簡単には会いに行けない。リヤーフが寂しくて泣いている時、そっと膝に乗ってくれるその猫は何よりも大切な友だちだった。それが死んでしまったのだ。
 それなのにジンは、猫の死体を抱きしめたまま泣きやまないリヤーフに追い打ちをかけるように告げる。
「だから構いすぎるなって言っただろ。ただでさえ逃げる体力もないくらいにヨボヨボだったのに、やれ体を洗ってやるだの、手で餌を食べさせるだので毎日しつこくつきまとうから、とうとう死んじまったじゃねーか」
 まだ何も知らなかった十一歳のリヤーフは衝撃に固まって、すっかりと冷たくなった腕の中の猫を見つめる。力なく手足を伸ばした姿勢で硬直していたその体は、改めて見れば毛並みがまばらに荒れていたし、顔立ちも憔悴にしぼんでいるようにすら見えた。
「……僕が、殺したの?」
「そんなもんだ。どのみち長くはなかったけどな」
 リヤーフは庭の岩場に腰かけたジンを見上げた。
「ジンは、神さまだからこのこが死ぬのを知ってたの? じゃあ、生き返らせることはできる?」
「ま、できないでもないな」
 投げやりな答えにリヤーフの瞳が輝く。
「生き返らせて!」
「やだ」
 たった一言の返事に、リヤーフは耳を疑ってもう一度繰り返した。
「こ、このこを生き返らせて!」
「やだ」
 言い方が悪かったのかと、今度は敬語で言ってみる。
「生き返らせてください!!」
「嫌です」
 返事も敬語で戻ってきた。だが内容に変わりはない。
 リヤーフは猫の死体を見つけた時以上に大粒の涙を浮かべてひれ伏した。
「お、おねがいしますううう……い、いきかえ、いぎ、いぎ……」
 ひぐひぐと詰まる息が言葉を濁らせる。それでもジンは相変わらず面倒そうな顔をして、ひざまずくリヤーフを見下ろすばかりだった。
「つーか、キリがねぇだろ。たとえそいつを生き返らせても、どうせまた二十年もしねぇうちに死んじまうんだ。お前はまたその時になって『生き返らせてくださいお願いします』なんて言うつもりか?」
 何を言っているのかわからないリヤーフに、ジンは当然のように教える。
「人間からすりゃ猫の一生なんて一瞬だ。いちいち情を寄せても消耗するだけなんだから、一匹一匹にかかずらってねぇで、てめぇの流れだけ見てりゃいいんだよ」
 それはまだ幼いリヤーフには到底不可能な話だった。今朝まで側に居てくれた大切な友が、もう二度と手の届かないところに逝ってしまったのだ。どうして達観していられよう。
 死体を抱いたままうずくまって泣くリヤーフの頭に手が伸ばされて、ジンは皮の硬い指でリヤーフの銀髪をぐしゃぐしゃにかき乱す。
「わかったわかった。そんなに言うなら俺がなんとかしてやるよ」
 リヤーフはおそるおそる顔を上げた。
「ほ、ほんとう?」
「いつまでもびーびー泣かれちゃ、うるさくてしょうがねぇからな。明日まで待ってろ。このランプの精霊めがご主人サマのために責任を持ってお手当てして差し上げますよ」
 芝居がかったことを言うジンの顔は、いつものように口を引きつらせるようにして笑っていて、リヤーフはすっかりと安心して猫の死体を彼に渡した。


 翌日、ジンの手から直々にリヤーフへと戻された猫の体は、ひどく縦長になっていた。
 手足をぴんと伸ばして直立姿勢を保つそれには、薬品くさい包帯がきつく巻きつけられている。頭部には木彫りで作られた猫の顔が被せられていた。そもそもこれ自体が木の器に入っていて、胴体の部分だけ仕事の成果を見せるかのように包帯に巻かれた中身があらわになっているのだ。
 リヤーフの腕に抱えるほどの大きさとなったそれは、どこからどう見ても、立派な猫のミイラだった。
「どうした。ものすごくコレジャナイって顔してるぞ」
「これじゃない……」
「口に出して言いやがった」
 そんなことを言われても、あまりにも唐突な事態に抗議の言葉も出てこないのだ。
 ジンは心底不可解そうにため息をつく。
「何の不満があるってんだ。ほれ、顔まできっちり作ってやったろ?」
「似てないよ! すごく恐いよ!!」
 木彫りの顔には生前の面影などかけらもなく、目張りも効いてやけに凛々しく壮健な顔立ちはあまりにも別猫すぎる。その違いを細かく指摘するほどに、ジンはだらだらとさらにやる気を失っていった。
「なんだよー、せっかく俺がわざわざ作ってやったのによー。内臓も別に取り分けておいたし、こうしておけば復活の時に問題なく生き返るんだぜ?」
「復活の時っていつ?」
「四千年くらいかな」
「長いよ! 僕が生きていられないよ!!」
 まだ十一年しか生きていないリヤーフにとっては、途方もなさ過ぎて想像もできない話だ。
 ジンは突き返された猫のミイラを無造作に担ぎ、にやりと口を歪めて笑う。
「ま、そん時ゃ俺がお前の代わりに飼ってやるよ」
 なんだかんだで、彼は猫が好きなのだ。リヤーフの目には一瞬、復活した猫と遊ぶジンの姿が浮かんだが、それが四千年後のことだと思うと首をかしげずにはいられなかった。
「……その時も、ジンは居るの?」
「まぁな。神だからな」
 こんなにも不公平なことがあるだろうか。猫を可愛がっていたリヤーフはその時には混じれないのだ。不満のまま飛び跳ねるうちに涙さえ出てきたリヤーフの頭を、ジンはけらけらと笑いながらまたしてもかき乱した。


 そんな、適当な生き物なのだ。ジンという男は。
 イアマールから直々にリヤーフの面倒を見るように言い渡されているはずなのに、彼自らリヤーフに構うことはなく、いつもだらだらと好き勝手に暮らしている。ハレムの女たちに徹底的に無視をされているという点ではリヤーフと同じなのに、彼はまるで傷つく様子もなく、特に何もしないまま日々を過ごしていた。

 だからというわけではないが、リヤーフはジンを殺そうとしたことがある。
 それはイアマールに言いつけられて、ハレムの秩序を乱していた女たちを始末した後のことだった。一人目の喉を掻き切って、噴き出す血を浴びながら腰を抜かしたことは憶えている。その後も新ハレムから借りてきた手練の宦官に引きずられるようにして立たされて、また一人、もう一人と泣き叫ぶ女たちに手を下したことも。血よりも人の脂にぬめる手で不器用に刃物を握り、一度で仕留めることができずに女たちを悶えさせ、口から赤い泡を噴くのを震えながら見ていたのは何人目だっただろうか。
 鮮やかな光景は次第に色を失って、白と灰色と黒しかない光の明暗に変わっていく。もはや体に浴びているのが血液なのか体液なのかもわからないまま、リヤーフは色が消えていくのと同時に、恐ろしさや高揚と熱がすうっとなくなっていくのを感じていた。
 結局、何人殺したのかはその時はわかっていなかった。
 気がつけばわけもわからないまま、縄でくくりつけられたかのように離れてくれない刃物を手に、夜の庭をさまよっていた。どれだけ時間が経ったのかも、どうやってあの場を退いてきたのかもその時は把握できていない。女どころか場を取り仕切っていた借り物の宦官も全員殺して処理場を逃れて来たのだとは、後になってわかることだった。
 血か脂かもわからないものを垂れ流して漂うリヤーフの目に、月下の岩場に腰かけるジンの姿が見えた。いつもよりも低く、手を伸ばせば届く位置にいる。リヤーフは何も考えず、背を向けたジンの喉笛を短刀で引き裂いた。
 ……そのつもりだった。
 だが切り裂いたジンの体は白黒の羽毛と化して夜に散り、リヤーフの視界を隠してしまう。そこで初めて困惑というものを思い出して固まるリヤーフの喉に、硬く乾いた猛禽の爪が食い込んだ。あと少しでも力を込めれば白い喉はハヤブサの爪に裂かれてしまうだろう。耳元を噛むようにして、くちばしが銀髪を食んで囁く。
「なんだ、その程度か」
 聞こえたのはいつものジンの声だった。だがリヤーフはわけもわからず短刀を振り回し、わあわあと声を上げる。刃が目には見えないジンの体を裂く度に白と黒の羽が舞い、血にまみれたリヤーフの体を覆っていく。
 地に膝をついたのは、それ以上暴れる力を失ったからだった。
 ジンは月を背負う人間の姿に戻り、蒼白なリヤーフをどこか面白そうに見下ろす。
「お前ごときに俺が殺せると思ったのか?」
 普段と何ら変わりのない、適当で、どこか面倒くさそうな声。
 リヤーフは反射的に答えている。
「殺せるよ。今は無理でも、いつか君をも殺してしまう」
 とてもできるはずがないと、今日までは思っていたのだ。誰かの命を奪うなど考えただけでも恐ろしい。そう思っていたのに、いざやらされてみればいつの間にか慣れていた。
 リヤーフはジンに刃物を向けた先ほどのことを思う。あの時だって、何の恐れもためらいも起きなかった。まるで息をするのと同じように短刀を振り下ろせたのだ。もはやリヤーフにとって命を奪うことは当たり前の行動だった。
 いつも通りの顔つきで見下ろすジンの目を、リヤーフはまっすぐに射抜く。
「僕にもっと力があれば、殺してしまう。もう誰が死んでも変わらない。君がいなくなっても、この手で消されてしまっても、僕は悲しくもないし、何も思わない」
 それが、彼がいつか言っていた「一つ一つにかかずらわず、自分の流れだけを見る」ことなのだろうとリヤーフは理解していた。リヤーフはこれからまだ何人もの女を殺さなければならないのだ。簡単に消えてしまう命に、情など寄せてもしかたがない。
 ジンはそれを教師として教えようとしていたのだろう。リヤーフは今になってようやくそれを理解できていた。
 だがジンは呆気なく生徒の言葉を突き返す。
「何言ってんだ。俺が死んだらお前は泣くに決まってんだろ」
 地面についたリヤーフの手が震えた。
「な、泣かない。……泣き方なんて、わからない」
「んなわけねーだろ。お前、イアマールたちから無視され始めた頃にどんだけ俺につきまとったと思ってんだ。びーびー泣きながら俺の裾持ってどこまでもついて来やがってよー。俺がお前には行けない高いところまで飛んでいったら、ぎゃあぎゃあわめいて息ができなくなるぐらいに泣いてたじゃねーか。忘れたのか?」
 あまりにも当たり前に言われるが、リヤーフにはその頃の情景がもはやぼんやりとしか思い出せなくなっていた。人を殺すのに必要のない、むしろ邪魔になる景色はすべて忘れなければいけない。だから、わずかに残ったその記憶も薄れていく。
「わ、わからない。思い出せない」
「なんだよなー、ったく。こっちは面倒くせぇ子守なんてさせられたのによ。大体、お前に俺が殺せるわけねーじゃねぇか」
「こ、殺せる。今は無理でも、いつかきっと」
「俺は神だぞ?」
 ずばりと言われて二の句が消える。ジンはやれやれと息をついた。
「たかだか十年ちょっと生きた人間が何言ってんだか。神ってのはな、それを信じる奴がいる限り死にゃしねぇもんなんだよ。別に崇拝なんていらねーぞ。しつこく祈りなんて捧げなくてもいい。俺がここに居るって誰かが『知ってる』だけで、俺はずっと居続けなきゃなんねーの。これがどういうことかわかるか?」
「わ、わからない」
「お前ほんっと頭悪いな。お前が生きている限り俺は消えねーんだよ。お前はもう俺が居るってことを知ってるからな」
 その言葉がまばゆく輝いて聞こえたのは、何故だろう。
 リヤーフはまるで光を見るようなまなざしでジンを眺める。
「……死なないの」
「おう。死ぬわけねーだろ神なんだから」
「僕が死ぬまで、ずっと?」
「別にお前が死んだって、他の人間に知られてる限りは死なねーよ。神なめんな」
 けっと吐き捨てたその言葉が、リヤーフの体を温めていく。
「……死なないんだ……」
 凍りついていた手の中から刃物が落ちる。口元が笑みにゆるむ。
 永遠にも思える半日を越えて初めて戻った微笑みは、頬からじわじわと広がって体のこわばりをほぐしていく。にこにこと笑うリヤーフの襟首を、ジンは無造作に掴んだ。
 そして何の前置きもなく担ぎ上げると、リヤーフの体を噴水の中に放り込む。
 ジンは混乱するリヤーフの頭を掴み、浅く広い水へと沈めた。リヤーフは当然じたばたと暴れて咳き込むが、ジンは何の迷いもなく彼の体を水の中へと押し込み続ける。
「おら、生臭ぇのさっさと流せ。鼻がおかしくなっちまうだろ」
「し、しぬ、し……」
「そんぐらいじゃ死にませーん。手加減してやってるっつの。ほら洗え!」
 とはいえ女たちの血は髪にも服にもこびりついているのだ。リヤーフは結局服を脱がされて、浅い水の中で白い肌が赤らむほどごしごしとこすられた。
 ようやく解放されて、薄赤に染まる水にぼんやりと浮かんでいたリヤーフの腹が不気味なまでの音を立てる。
「なんだ、腹減ってんのか」
「……腹? これ、お腹が空いてるの?」
 ジンがおかしな顔をしているが、リヤーフはすっかりとわからなくなってしまったのだ。
「お腹が空くって、何だっけ? どうすればいいのかな?」
「……お前、もしかしなくてもすげー面倒くさいことになってねーか?」
 おそらくはそうなのだろう。リヤーフの頭からは、これまでの記憶と共に様々なことがぼろぼろと抜け落ちて、生活の方法すらわからなくなっていた。
 ただ、はっきりと頭にあるのはどうすれば人を殺せるかということだけ。
 それともう一つ、目の前でため息をついてしゃがんでいる男が、ジンと呼ばれる神ということ。
「そりゃイアマールに頼まれたけどよ、俺はそこまで面倒は……」
「ジン」
 リヤーフは水の中から問う。
「君のこと、憶えていてもいい?」
 許してもらえなければ、唯一残ったこの記憶すら無かったことになるのだろう。
 だが憶えている限りジンは死なない。ただそこに居るだけかもしれないが、ずっと、生きていてくれる。それだけは理解できていた。
 じっと見つめるリヤーフの視線をうんざりと見返して、ジンは髪をかき乱す。
「……たまに思い出すぐらいならな。大事にしろよ」
 嬉しくて嬉しくて水を叩いて笑っていると、体からまた奇妙な音がした。
「ジン。お腹が変だよ」
「だーかーらー! 腹が減ってんだろうが! 何か適当に食っとけよ!」
「食うって何だっけ?」
「お前、俺が母鳥みてぇに食わせてやるまでそうしてる気か……?」
 ああもう、と立ち上がるとジンはリヤーフの冷えた体を担ぎ上げる。そしてとめどない文句と愚痴をこぼしながら、食べさせるものを探して歩き始めた。

          ※ ※ ※

 一体どういう仕組みなのか様々なことを忘れてしまった人の子どもは、満腹になるとそのまま眠たげに揺らぎ始めた。何度目かの「しょうがねぇなあ!」を吐き捨てて、ジンは子どもを背負って歩く。適当な場所に転がして寝かせておけば、仕事は終わりだ。明日からは構わなくても済むように、イアマールと交渉しなければならない。
 そんなことを考える首に、細く頼りない腕が回された。
 きゅうっと肩を掴む手は、暗闇の中で彼を探している。
「ジン。居る?」
「居るよ。いいから寝てろ」
 吐き捨てると耳元に嬉しそうな息が漏れ、幼い手はジンの襟を強く握って垂れた。
 これではまた初めからやり直しじゃないかと心の中だけで嘆く。イアマールに捨てられて、さんざん泣きわめく子どもをなんとか振り払ってきた。猫が死んだ時もそうだ。あまりにも優しく支えてやると、こういった手合いはすぐに懐いてしがみつくのだ。
 懐かれてそれが一体何になるだろう。所詮は人間でしかないのに。
 しっかりと掴んで離そうとしない小さな手の重みを感じながら、ジンはまた息をつく。
「……どうせ、八十年も生きねぇくせによ」
 こぼされた呟きを聞くこともなく、子どもは彼の背に揺られて安堵の眠りに落ちていた。


『ただ、そこに居るだけの』2012/08/11 古戸マチコ

at 00:28, 古戸マチコ(こと・まちこ), うたう鳥のよる

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